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用語集

仏教や本門佛立宗で使われる専門用語から、お寺にお参詣をされた際のお参詣方法・礼儀作法などのマナーも紹介しています。ご自由にお役立てください。

あ行

異体同心(いたいどうしん)
身体は人それぞれに異っても、心は一つということ。この一つとは、ご信者みんなが、仏様やお祖師さまの心と一つになるということ。単に「仲良くしましょう」ということではない。異体同心はご信心の要であり、これを破ることは厳しく戒められている。

因果の道理(いんがのどうり)
仏様が悟られ、私たちに教えてくださった、この世界に存在する根本の法則の一つ。「何かの結果には、それを起こした原因が必ずある」という道理のこと。私たちの身の回りに起こってくるすべての出来事は、偶然に起こることは何一つなく、すべて自分が過去に行った行為によって影響を受けているということ。因果応報、自業自得と言われるもの。善行や悪行の記憶は魂の深層に刻まれ、これを「業(ごう)」といい、現在の自分の考え方や行いに影響を及ぼす。悪行によって刻まれる業を「罪障」、善行によって刻まれる業を「功徳」といい、ご信心は、罪障を消滅し、功徳を積むことを実践するもの。これは現世の行いだけでなく、過去世や未来世といった三世にわたる。

回向(えこう)
自分が持っているものを、他に振り向けること。これら回向の対象として、過去の衆生(亡き人々)、同信の人々、そして広く一般の人々がある。

お看経(おかんきん)
御題目を唱えること。また、本門佛立宗の法要式「妙講一座」に従って一座の法要を勤めることを言うこともある。

お経(おきょう)
お経とはお釈迦さまが年間説かれた教えをまとめたテキストのこと。お釈迦さまがおられた当時は、教えを聞いた方々が、それぞれ口づたえで仏教を伝承していったが、お釈迦さまがご入滅された後、その偉大な教えを後世に残すために、多くのお弟子が集まり、一つ一つ検証をしながら、多くのお経が編纂された。そのお経が中国やスリランカなど各地に伝わり、日本にももたらされた。

お講(おこう)
本門佛立宗の信行活動の基本で、お寺や各ご信者の家庭で行なう行事。御題目口唱を中心とし、さらに御法門によって教えの解説や教導を行なう弘通(布教)のための行事で、お互いに導き学びあって信心の増進を図り、菩薩を目指して自分と他人をよくすることを心がけ、御法の繁栄隆昌を祈る道場の役割がある。

お供水(おこうすい)
御宝前(仏前)にお供えし、御題目を唱え込んだお水のこと。仏様のお力がこもったありがたいお水として、大切にいただく。御題目を直接体の中に取り入れる方法として、病気平癒や健康維持のために、佛立宗の信徒宅では毎日お供えし、日常の飲料に用いられる。

お釈迦さま(釈尊・ブッダ)(おしゃかさま しゃくそん・ぶっだ)
ブッダ(釈尊)が生まれるはるか遠い昔、人々を救う修行を重ねてついに万物の真理を悟られた、「久遠の本仏」とお呼びする仏様がいらっしゃった。
今から三千年前、その教えを悟り、人類を救わんがためにインドに仏教を弘められたのが、シャカ族の聖者、お釈迦さま(ブッダ)です。
お釈迦さまは、青年時代、避けられない人生の苦しみ(生老病死)にぶつかり、どうすればその苦しみを解決できるかを考えられた。
そして十九歳の時に、王子の位を捨て家庭から離れ(出家)修行生活に入り、命を懸けて道を求められた。
苦行や瞑想といった修行を経て、菩提樹のもとに座られたブッダは、ついにご自身の内面に久遠以来の仏が顕われ息づいておられるのを見た。
これを成道といい、三十歳の時と伝えられている。
ブッダは約五十年にわたって、さまざまな人々に教えを説き続けた。
そしてブッダが各時期、各地方で説かれた教えは、のちにそれぞれが一つのまとまりを持ったスートラ(教典)として編纂されていった。
膨大なスートラに盛り込まれた教えの内容が大きく違いますが、それは応病与薬といって、ブッダの教えが説かれた相手の、悩み・状況・能力などを考慮されてそれぞれにふさわしい教えを説いていかれたからである。
そして最後には皆が成長して「本当の教え」を聞いて理解する力を養うためだった。
ブッダはそのご晩年、「本当の教え(法華経)」(妙法蓮華経)を説かれ、当時の大勢の人々にも悟りを分け与えられました。しかし、本当にブッダが心配されたのは、八十年間のご生涯を終え、この世からお姿をかくされてより二千年後、末法時代に生まれてくる人々のことで、それが何より気がかりでした。
そこで未来の人々のために自分で悟りを開くかわり、信心の道を示されました。
すなわち、釈尊の厳しい修行の功徳とお開きになった悟りの果報とをこめた、「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」の御題目をのこしてくだされた。
そして、久遠以来のお弟子であった上行菩薩に御題目を授け、未来の衆生の救済を託されたのである。

お助行(おじょぎょう)
助行には、二つの意味があり、一つは根本の修行(正行)の助けとなる修行のこと。もう一つは、願いをもつ本人(正行の人)に対して、信者が互いに励ましあい、喜んで信心修行ができるよう、信心の仕方や心得を教え、信心増進の援助をすること。“お助行”という場合は、後者を指すことが多い。

お導師・お講師(おどうし・おこうし)
佛立宗のお寺の住職を信徒はお導師と尊称し,その弟子の僧侶をお講師(お教務さん)と呼ぶ。

か行

教化(きょうけ)
教え導き、正信へ変化させる意で、正しい信仰心を起こさせること。菩薩行の根本。

教務・講務(きょうむ・こうむ)
僧侶を教務といい、信者、信徒を講務と呼ぶ。壇家や壇徒という名称は用いない。ただし、これは少々堅苦しい言葉で、通常は、僧侶のことを「お教務さん」「お講師」、信徒のことを「ご信者さん」と呼称する。

久遠本仏(くおんほんぶつ)
法華経如来寿量品で明かされる、お釈迦さまの本当の姿。それまで、お釈迦さまは、釈迦族の王子として生まれ、出家して修行の末に初めて成仏をしたと説かれていたが、法華経の中で、お釈迦さまは、自分は久遠の昔に「菩薩行」という修行の末に妙法と一体となった、「本仏」であり、いろいろに姿を変えながら、ずっとこの世界におり、人々を救い続けている存在であることをあかされた。

弘通(ぐづう)
法をひろく広めること。御題目が一人でも多くの方に伝わるこが当宗の目的である。お祖師さま(日蓮聖人)は、全世界に弘通することを目指された。

下種結縁(げしゅけちえん)
妙法、御題目を人の心の底に植え付けて(下種)、仏様との縁を結ばせる(結縁)こと。

現証利益(げんしょうりやく)
熱心に信心することによって、現実にお経文に示された通りによい結果が顕れること。妙法の正しさと、未来成仏の証が現実の証明として眼の前に現われることをいう。一般でいう“現世利益”とは違い、自分の欲望を叶えることではない。

御教歌(ごきょうか)
佛立開導日扇聖人が、法華経の高遠深広な教理と修行の方法を、平易な和歌に詠み込まれたもの。およそ三千余首が残されている。佛立宗の法話(御法門)はこの御教歌をテーマとして説かれることが多い。

御宝前(ごほうぜん)
一般的に神仏をまつった場所の前を尊んでいう言葉。佛立宗では御本尊を奉安した御戒壇をいう。

御法門(ごほうもん)
一般にいう説教・法話の意で、本門佛立宗では、お寺やお講で説き示される教えのこと。正しい信心の在り方や仕方を学ぶ基本。もともとは仏の教えのことで、その教えの門から入って悟りに到るといわれた。

御妙判・御指南(ごみょうはん・ごしなん)
御妙判とは、お祖師さま(日蓮聖人)の書物の一節のこと。御指南とは、門祖日隆聖人・開導日扇聖人、その他先師の書物の一節のことをいう。本門佛立宗の教務(僧侶)が御法門(法話)をするときは、今話している内容が自分勝手に言っていることではなく、先師聖人方もちゃんとこうおっしゃっているのだと証明するために、これらを引用することがある。

さ行

罪障(ざいしょう)
因果の道理を参照

懺悔(さんげ)
罪を悔い改め、ゆるしを願うこと。罪にも二つあり、一つは道徳上・法律上の罪、もう一つは謗法罪といい、正法に背くことで、これは知る知らずにかかわらず人が生まれ持っている罪であるとされる。これらの罪を告白し、これからは正しい道を修行し、善行功徳を積むと誓うこと。

三証(さんしょう)
仏陀は本物の仏教(宗教)を見極める方法として、3つの指針のあることを説かれている。それが三証と言われる、道理証、文証、現証の3つのこと。これがそろって初めて、正しい信仰であるとされる。
道理証とは道理に適っているかどうかということ。たとえば人をあやめて正しいとしたり、世間の人々がとても理解できないような修行方法を行うなど、世間の道理に合わせておかしいものは正しい信仰ではない。
文証とは、その教えのよりどころとなっている証文があるのかどうかということ。仏教であれば、仏説の経典に則っているかどうかということ。教祖などが突然、自分は神だと名乗り、いろいろな諸説をならべても、それが、経文と照らし合わせて違っているならば、正しい信仰ではない。
現証とは、正しい信仰を信じ、実行する中で、その経文に説かれたとおりに「よい結果」があらわれるかどうかということ。
正しい信仰を正しく実践すれば、その証明として、よい結果があらわれるはすである。その証明があらわれなければ、いくら口で正しいと言われても信じることができないのが私たちというもの。仏教は、正しい生き方と、苦しみ、悩みを乗り越える方法を説かれたもの。つまり、仏教を正しく実践すれば、人生が好転するはずである。しかし、正しく仏教を実践できていなかった場合、正しく結果はあらわれない。だからこそ、私たち佛立宗では、この「現証」こそが自分の信仰の正誤を図るものとして大事なものとされる。ご信心をしていて実際に目の前で病気が治ったり、仕事が上手く行ったり、あきらかに人生が良くなっていけば、このご信心は本物で、来世も大丈夫だと確信が持てる。これこそが、まさに本物の仏教を証明する、とても大切なことだと教えていただくのである。
本門佛立宗は、まさにこの三証を満たした、道理に適ったやり方(道理証)で、法華経という仏教最高の経文を基に(文証)、さまざまな御利益を頂ける(現証)、真実、本物の仏教なのです。

折伏(しゃくぶく)
妙法弘通の方法で、人々の迷いの心を折り伏せ、妙法を持たせること。現代にあっては、誤った考えを慈悲をもって打ち破り、正法に従わせるという、厳しい方法に依らなければ、人々は救えないとされる。折伏はあらゆる善行功徳のなかの第一のものと教えられる。

上行菩薩(じょうぎょうぼさつ)
久遠の本仏が、久遠の時代にお教化をしたという一番弟子で、釈尊が法華経を説かれたとき、末法の世に妙法を弘めるように任命した四人の菩薩(本化の四菩薩:上行菩薩、安立行菩薩、浄行菩薩、無辺行菩薩)のうちの最も上位の一人。

随喜(ずいき)
感謝と感激の意味で、御法に出会えた身を喜び、その教えを信じて随い、人の幸福を素直に喜ぶこと。常に感謝の念をもって日々を送る中に、また新たな喜びが生まれる。

な行

南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)
私たちがお唱えする御題目のこと。言葉の意味としては「妙法蓮華経(法華経)」に「南無(帰依)」するということだが、南無妙法蓮華経というひとつの聖なる言葉(マントラ)としてお唱えするときは、この言葉自体にみ仏の聖なる力が込められていると教えられる。

久遠本仏と法華経に説かれる妙法と御題目(南無妙法蓮華経)は一つのもの。日蓮聖人はこれを御本尊として南無妙法蓮華経と書き顕された。

ただし、同じ南無妙法蓮華経でも、宗派によってこの出典は異なり、正しくお唱えすると、「本門八品所顕、上行所伝、本因下種の南無妙法蓮華経」と熟語する。これは、法華経本門八品(如来寿量品第十五~属累品第二十二)に説きあらわされ、上行菩薩に付属された、成仏の種が込められた南無妙法蓮華経という意味になる。

日蓮聖人(にちれんしょうにん)
上行菩薩が法華経の御題目を弘めるために、私達と同じ人間としてご再誕(誕生)されたのが日蓮聖人である。
日蓮聖人は年(貞応元年)、千葉県小湊にご誕生になり、歳で出家された。
その後、鎌倉や比叡山で学ばれるうちに仏様の真意をつかまれ、乱れた世の中を正し、苦しみにあえぐ人々を救うには法華経しかないとの結論に達せられた。
そして年(建長年)歳の時、千葉の清澄山旭ヶ森にて立教開宗(教えを立てて宗を開く)され、御題目を声高らかに唱えられた。
それから日蓮聖人は様々な迫害を受けながらも、人々に法華経の教え、御題目を信じ、唱えることこそ、仏様の真意であると説き続けられた。
法華経には、末法に仏に代わって法華経を弘める者は流罪を受け、刀で切られそうになり、その他、種々の迫害にあうであろう。しかし、法華経の行者を守護する諸天善神はこの人を守り、その使命を全うすることを助けるであろうと説かれている。日蓮聖人のなさったことと、受けた法難を法華経にこうした記述と照らし合わせると、本仏釈尊の使者上行菩薩の再誕とは日蓮聖人以外にはありえないのです。
こうして命がけで仏教を法華経で統一されようとするとともに、多くのお弟子信者を育てられた。そして多くの人を御題目によって救われ、数々の現証をあらわされた。
日蓮聖人は年(弘安年)月日、大田区池上でご入滅された。

は行

幅広い世代の活動
妙深寺には、世代別に育成会があり、薫化会(誕生~中学生)、青年会(高校生~30代)、婦人会(30代~女性)、壮年会(30代~男性)、松風会(60代~)といった、様々な年代の方々が活躍され、それぞれに行事を企画・運営している。また、社会的な青少年少女育成団体である、ボーイスカウト(横浜第35団)、ガールスカウト(神奈川県第24団)も活躍している。

東日本大震災での支援活動
2011年3月11日、東日本大震災の発生時には、その直後から住職のブログを通じて、いち早く正確な情報を収集、発信。全国の佛立寺院のネットワークを活用して物資を集め、支援活動のハブ寺院として活動してきました。陸前高田市での大規模な炊き出しや「うごく七夕まつり」の実現をサポート。一周忌の2012年3月11日には、高田松原の松の木で作った大塔婆を現地に建立。被災地の方々の「祈り」の場を創造し、心のケアに取り組んでいます。

謗法(ほうぼう)
正しい法をそしる(謗る)こと。この世の道理に背き、間違った生き方をしていること。法華経には、この謗法の種類として、の謗法が説かれている。

①憍慢(きょうまん:慢心)、②懈怠(けたい:怠り)、③計我(けいが:自分の考えに固執すること)、④浅識(せんしき:浅い知識で満足してしまうこと)、⑤著欲(じゃくよく:欲望に執着すること)、⑥不解(ふげ:理解しようと努めないこと)、⑦不信(ふしん:信じないこと)、⑧顰蹙(ひんじゅく:顔をしかめること。よい行いを見て非難する心のこと)、⑨疑惑(ぎわく:疑い、迷い)、⑩誹謗(ひぼう:口で謗ること)、⑪軽善(きょうぜん:よい行いをする者を軽しめること)、⑫憎善(ぞうせん:よい行いをする者を憎むこと)、⑬嫉善(しつぜん:よい行いをする者を嫉妬すること)、⑭恨善(こんぜん:よい行いをする者を恨むこと)。過去の罪障の根源も、現在の苦しみの原因も謗法にあり、この謗法を厳しく戒め、日々罪障消滅のために御題目口唱に励むことが肝心であると教えられている。

法華経(ほけきょう)
「妙法蓮華経」の略称。法華経は中国の姚泰代の鳩摩羅什(くまらじゅう)によって、中国語に訳された経典で、古来、インド、中国、そして日本において最も信奉された仏教経典。私たち本門佛立宗の根本経典。

菩薩(ぼさつ)
菩薩とは、仏様の教えに従って、人を助ける仏様の行いを助ける人のことを言う。他の人を慈しみ、他の人の悲しみ、苦しみに手を差し伸べることを自分の修行とする。み仏は、人間の素晴らしい生き方を教えてくださっています。仏教の真髄は「菩薩」という生き方です。菩薩の生き方は、
向上心と慈しみに満ちた生き方です。佛立宗のご信者は、社会生活、学校生活、家庭生活で、菩薩の生き方の実践を目指します。

本化の菩薩(ほんげのぼさつ)
久遠の本仏によって久遠という遠い昔に教導を受けた菩薩方のこと。これに対し本仏の垂迹身(分身)である迹仏の教導を受けた菩薩のことを迹化の菩薩という。本化の菩薩は地涌の菩薩ともいい、その上首、リーダー格が上行、無辺行、浄行、安立行の四菩薩。
私たち本門佛立宗では、日蓮聖人を久遠本仏釈導の直弟子、上行菩薩の御再誕としてお敬いしている。

本門・迹門(ほんもん・しゃくもん)
法華経二十八章のうち、前半の十四章(品)を迹門といい、後半の十四章を本門という。迹門とは迹仏の説かれた御法門、つまり釈尊があくまで歴史上の聖者、人間釈尊として説かれた教えという意味。一方、本門はその釈尊がご自身の本身は永遠の命を備えた根本仏、久遠の本仏であるということを明かされた上で説かれた法門のこと。

本門八品(ほんもんはっぽん)
法華経の第十五章から第二十二章までの八章(八品)のこと。本門佛立宗が根本聖典とするのは法華経ですが、とりわけ本門八品の部分を重視します。その理由は、この本門八品の中で、久遠本仏の悟りとは何かが説き明され、その悟りの功徳を南無妙法蓮華経と説える信心修行の中に収めて本化上行菩薩をはじめとする地涌の菩薩方に末法の世に伝え弘めよと任を与えられているからである。

本門佛立宗(ほんもんぶつりゅうしゅう)
本門佛立宗は釈尊(仏、ブッダ)に始まり、日蓮聖人を宗祖と仰ぐ宗門です。
そして日蓮聖人が定められた南無妙法蓮華経の御題目の御本尊に帰依し、一心に御題目をお唱える修行(口唱行)を根本としています。

当宗が拠り所とする根本経典は釈尊が最後に説かれ、みずから「これこそ第一の教えである」と宣言された法華経(妙法蓮華経)です。だからこそ、仏(釈尊)ご自身がうち立てられた宗旨、「佛立宗」といいます。この名前は伝教大師や日蓮聖人が使われていた宗名でもあります。

本門佛立宗の「本門」とは、法華経28品(章)の教えのうち、前半を「迹門」、後半を「本門」という、その「本門」です。迹門の迹とは「あと」、「影」という意味です。本門の本とは「根本」、「本体」という意味です。本門は根本の仏である本仏がお説きになった教え、迹門は、本仏を天の月とすれば、池に映った月の影のような仏である迹仏が説かれた教えという違いがあります。

日蓮聖人は後半の本門でも第15~22章までの本門八品(8章)を独自の経典とされ、釈尊のあらゆる教えの中心とされました。それは、ここに、釈尊が亡くなられた後、2000年以降(末法)の人を救う御題目と、これを弘める使命を担った上行菩薩(日蓮聖人の前身)のことが説かれているからです。このように本門八品の御題目を中心とするので本門佛立宗というのです。

ま行

末法(まっぽう)
釈尊が入滅して二千年を経て仏の教えだけは残っていても修行や悟りはなくなるという濁世の時代。