歴史・沿革

草創期 〜 初代日博上人時代

 妙深寺の本寺となる乗泉寺は、元和元年(1615)に、織田家の家臣・小島勘兵衛が、江戸・飯倉の西久保に庵室を建立したのが始まりとなる。さらに徳川三代将軍家光の頃、麻布桜田町(材木町・現在の六本木ヒルズの場所)に移転 し、乗泉寺は戦後までこの地にあり、佛立第四世講有・日教上人、第八世講有・日歓上人・第十五世・日晨上人の尽力により、今日の大乗泉寺の礎を造った。戦後まもなく渋谷へと移転。

 昭和初頭、佛立講東京第二支部といわれた乗泉寺系の信徒が教化や移転により横浜地区に増加し、本英組・本朗組が設立され、乗泉寺から受持教務が派遣されるようになった。清水正深師(日博上人)も昭和七年にご奉公をされている。

 その後、ご弘通はさらに展開し、横浜地区への親会場建立の声が高まり、昭和十八年、西区岡野町の住居を取得、待望の「神奈川妙証教会」が設立され、日博上人が初代住職として就任された。当時の信徒数は一八〇戸。

 昭和二十年、戦争末期の横浜大空襲で市街中心地の大半を消失、当山も焼夷弾を被弾したが、必死の消火活動により、ボヤ程度で消失を免れる。四五〇戸までに増加した信徒も、疎開等で離散し、八〇戸に減少、終戦を迎える。

 終戦後の混乱の中、新しい時代の幕開けとともにお助行などの大弘通運動を展開、信徒は再び四五〇戸に増加。昭和二十二年、「妙深寺」として寺号公称、内外二千余名の参詣を得て開筵式を挙行。以後、日博上人の厳しき中にも慈愛に満ちた指導により、分教区・分連合を繰り返しながら破竹の勢いでご弘通が進展。

 昭和二十五年、信徒教養紙「一実」発行。戦後の物資のままならない状況ながら、信徒教養の書籍の不足により、全国の希望寺院に配布され、宗門紙的な役割も担い、その後十二年間に亘り発行された。また、教養部活動にも力を入れられ、薫化会、青年会の行事は、地域の子どもたちにも開かれたものだった。その後、青少年教育の一環としてボーイスカウト横浜第三十五団を設立。

 日博上人は、社会福祉事業にも数多く取り組まれ、昭和二十五年に児童養護施設「ゆりかご園」を開設。昭和二十六年からは「箱根療養所」へ慰問活動を実施。毎月のお講奉修、また年に一度の「大園遊会」は、外出のままならない患者さんや職員の何よりの楽しみとして、十年に亘り毎年開催された。また、昭和三十七年にはご信者のご有志を募り、マイクロバスを献納。

 昭和二十七年、戦争の混乱で音信の途絶えていたブラジルから日水上人が来寺。日博上人と大いに意気投合された。その折り、日水上人の要請を受け、開講百年記念ご奉公の一環として日博上人主導のもと宗門に海外弘通総局が開設され、昭和三十年、第一回ブラジル巡教が実施。日博上人は第十一世講有日颯上人の随伴として同行。お会式・お講・お助行・講演会などを通し、ブラジル弘通の基礎固めとなる多大な成果を上げられた。このブラジル巡教を記念して、信徒増加著しい大和方面のご信者のため、別院建立を発願、大和に土地を取得した。昭和三十九年に日博上人は第十五世講有日晨上人の随伴として、大病を押して第二回のブラジル巡教に同行された。

 昭和三十三年、墓地納骨堂建立のため、現在の所在地となる三ツ沢に土地を取得。昭和三十九年、別院(回向堂)完成。

 昭和四十一年、妙深寺は二級寺院に昇格。その記念ご奉公として、この年、教化五百戸・助行三万回の誓願を成就した。

 妙深寺の礎を築かれ、世界を股にかけてご奉公をされた日博上人は、「命をば妙法蓮華に奉り カンナをかけてやりし日もあり」「ワッハッハよきも悪しきも今生は まずはこれまであとは来世で」と豪傑なお導師らしい辞世の句を詠まれ、昭和四十二年五月四日、法寿六十二歳を以てご遷化。一つの時代の節目を迎えた。

第二代 松風院日爽上人(長松清涼師)時代

 日博上人の後継として、御講尊日晨上人のご指導をいただき、日博上人の息女の夫の長松清涼師(日爽上人)を住職代務として就任、昭和四十四年に正式に第二代住職となられた。まだ二十代の若き住職のもと、妙深寺の新たな時代が始まった。

 清涼師は、日博上人の伝統を護り、さらに発展させるために、日博上人のご年回にあわせた中・長期の弘通計画を立て、教講一体となってご弘通ご奉公に努められた。昭和四十四年日博上人御三回忌奉修、記念事業として戸塚別院を建立。また、現在も続く「妙深寺報」の発刊。ご信者みんなが心から楽しめる行事をと、大運動会を開催、以後京浜グループの一大イベントとして三十年に亘り毎年開催された。昭和四十五年、ガールスカウト神奈川第24団発団。妙深寺の特色の一つでもある薫化会・青年会・ボーイスカウト・ガールスカウトの「教養四会」は、協力しながら青少年の育成に励んでいる。

 昭和四十七年、日博上人御七回忌の記念事業として三ツ沢に新本堂建立、移転。岡野町の旧本堂はご信者みんなの手により解体された。翌四十八年には開筵式が挙行、二千四百名の参詣で賑わった。昭和五十一年、教養会館建立。ボーイスカウト・ガールスカウトなどの集会室にあわせ、「教務は寺内に住むべき」との先住の意向により、教務住宅が併設された。

 昭和五十四年、先住御十三回忌の記念事業として、大和別院新本堂が完成。昭和六十二年には、第二本堂(納骨堂を含む多目的会館)を建立。ガラス製の御本尊・御宝前は、洋式の結婚式も行えるようにとの日爽上人の意向で、「新時代の寺院」として新聞やテレビでも報道された。

 平成元年、町内の方との交流のため、第一回観桜会(さくらまつり)を開催。現在も春の町内会行事として広く認知され、町内の方々が来寺くださっている。

 平成五年四月三日、日爽上人は、観桜会の準備中に自転車で崖から転落、脳挫傷から意識不明となられた。この大変な事態に対し、信徒は一丸となって昼夜を分かたぬ不眠不休のお助行を実施、四十九日目となる五月二十一日、奇跡的に意識を回復され、その後、後遺症も全くなくご奉公に復帰、現証の御利益を私たちに顕してくださった。その間、門祖会併せ日博上人御二十七回忌を無事奉修、秋の高祖会には、妙深寺創立五十周年記念式典が盛大に開催された。

 日博上人が作られた土台の上に、さらに様々な発案によって大きく妙深寺を発展させた日爽上人は、そのご奉公を後進に譲られるように、平成十二年六月十四日、六十二歳にてご遷化された。

第三代住職へ

 日爽上人ご遷化の後、日爽上人の子息、清潤師が第三代住職として就任。何よりご信者を大事にされる日博上人からの伝統を受け継ぎつつ、妙深寺報の刷新、ホームページの開設、教化運動の一時廃止にあわせて菩薩心高揚のための「菩薩の誓い」運動の開始、感動あるお会式・お講奉修の改良、納金事務の改善、スリランカ・シンガポール・イタリア・ブラジル・インド・ネパールなどへの海外ご奉公、ウェブカメラを使った遠隔地お講の実施など、豊富な社会経験と揺るぎない信心に裏付けされた数々のご奉公を打ち出され、ご信者に愛されるお寺、世間に開かれたお寺として、教講一体となってご奉公に邁進している。