本門佛立宗とは


本門佛立宗(ほんもんぶつりゅうしゅう)は、建長5年に日蓮聖人が「南無妙法蓮華経」の御題目を布教された時に始まります。

後に幕末の混乱の中、安政4年1月12日、京都の長松清風(日扇聖人)が乱れた教えを正し、

本門佛立講として民衆を救済する布教を始めました。

本山の宥清寺は、日蓮門下としては関西最古の寺院で、延慶元年、日蓮聖人の直弟子であった日弁上人が開創されました。

 

本門佛立宗の教え


本門佛立宗の修行の中心は、口に御題目「南無妙法蓮華経」とお唱えする「口唱行」です。

南無妙法蓮華経が認(したた)められたご本尊に向かって、一心に繰り返しお唱えすることによって、

その御題目にこめられた功徳を頂戴することができます。

その積んだ功徳によって、病弱な人は健康になり、学業・仕事は成功し、心の悩みは解消され、

人間関係は改善、災難から逃れるなど、我が身・我が心に、目に見えるかたちで様々なご利益が顕れるのです。

佛立宗のお唱えする御題目は、いわばどんな病い、悩み、願いにも効く「万能薬」です。

御題目さえお唱えしていれば、「学業成就にはあの神社…」「安産にはこのお寺…」といったように、

あちこち神社仏閣を巡る必要もありません。

さらにありがたいのは、この御題目の口唱行は、幼い子供からお年寄りにまでできる、とても簡単な修行だということです。

御題目口唱以外に難しいお経を読む必要もありません。

口唱行は誰にでもできる簡単な修行で有り、当宗の法要では、教務(きょうむ:当宗の僧侶の呼称)とご信者が一同に

「南無妙法蓮華経」と口にお唱えするのです。

 

法華経とは


南無妙法蓮華経の御題目は、『法華経』という仏教経典の中に説き顕された、いわば「魔法」の言葉です。

法華経は「諸経の王」「最勝の教え」「真実の教え」といわれ、

仏教経典の中では、昔からもっとも広く尊崇・信奉される経典です。

日本でも古来より聖徳太子をはじめ、多くの人々が魅了され、アジア諸国、その他世界中の人々の信奉を集めてきました。

歴史上インドにお生まれになったお釈迦さまは、30歳の時に成道(成仏を果たすこと)されて以来、

80歳でお亡くなりになるまでの50年間、実に様々な教えを説かれました。

そしてご晩年の8年間に、集大成とも言うべき「法華経」をお説きになられます。

日蓮聖人

日蓮聖人は、鎌倉時代の承久4年(1222)2月16日に、今の千葉県房総半島小湊の漁村にお生まれになりました。

ご生誕の日には海中に蓮華の花が咲き、庭より清水が湧き出るなど、様々な奇瑞が現れたとの伝説があります。

当時庶民に弘まっていた念仏やその他の信仰がいっこうに国内の争い、疫病を解決する手助けとならないのことに疑問をもたれ、12歳で生家近くの清澄寺に入寺されます。

仏様のまことの教えとは一体何なのか、その疑問に答えを見いだすべく京都や奈良に遊学され、約20年間にわたる仏教研究の末に、様々な経典の中でも法華経こそが最高の教えであるという確信を得られます。

その中でも、法華経の本門八品という部分に示される御題目、南無妙法蓮華経こそが、末法という時代を生きる私たちのために示された、仏さまの真実の教えであるとの答えを見いだされ、この御題目を世に弘める誓願を立てられたのでした。

1253年4月28日、日蓮聖人32才の時です。 以来61歳でご生涯を終えられるまで、上行菩薩後身の自覚とともに、御題目を日本国にお弘めになるご奉公を全うされました。

日蓮聖人がこの世に現れなければ、私たちは仏様の真実の教え、法華経の正しい信仰である御題目のご信心を誰からも教わることはできなかったのです。

日隆聖人

日隆聖人は室町時代の至徳2年(1385)、今の富山県浅井郡嶋村の館に桃井右馬頭尚儀公の子息としてご誕生になりました。

南北朝の戦乱の中、12歳で入寺得度。天性怜悧な少年であったため、14歳で帝都京都にでて本格的に仏教を学ばれ、やがて日蓮聖人のおしえの真髄は、法華経本門八品にあらわされた、上行菩薩の伝える御題目にあることを覚られます。

お祖師さまの時代から100年以上の時が経過し、すっかり習損じてしまっていた当時の法華宗をはじめ、余宗を改良させるご奉公に日隆聖人は精進されます。

織田信長が亡くなったことで知られる本能寺をはじめ、近畿一円から北陸、岡山方面にかけて計14カ寺を建立されたのでした。

これらは全て上行所伝の御題目による現証布教(現証の御利益を顕すことで相手を改心させる布教の仕方)によるものでした。

ご晩年、尼崎の本興寺に入られてからは、後世に正しい高祖のみ教えを遺すための膨大な著作の執筆活動とお弟子の養成に尽力され、81歳をもってそのご生涯を閉じられました。

日扇聖人

日扇聖人〔長松清風 1817―1890〕は、江戸末期の文化14年(1817)京都市蛸薬師通室町の商家、大路家に誕生しました。

文芸の才に優れた日扇聖人は、14歳のときに『平安人物誌(現在の人物年鑑)』の「画」の部に名を連ね、26歳の若さでひとかどの町人学者として知らせるようになり、歌人、書家として名を馳せます。

将来を約束された日扇聖人でしたが、母の死と自らの大病をきっかけに仏教各派の研究ののち、法華経本門八品上行所伝の御題目の信仰に目覚め、32歳の時に淡路の法華宗隆泉寺で出家得度します。

しかし、幕府の檀家制度によって堕落状態であった当時の法華宗や仏教界にとって、文化人として名を馳せ仏法に精通し、民衆の救済に身をささげようと求道の志に燃える日扇聖人の存在は目障りなもので、様々な弾圧にかかります。

それでも日扇聖人は、久遠本仏の使者、日蓮、日隆の正統をつぐ後継者という志を胸に、安政4年1月12日に「本門佛立講」を開講されます。

以来、難しいおしえの内容を平易な和歌に詠んだ三千余首の「御教歌(ごきょうか)」を作成し、民衆に親しみやすい形で仏教、日蓮聖人のおしえを伝え続けました。

御題目の口唱行と現証のご利益によって京阪神を中心に教線が広がっていきました。そして、明治23年7月17日、激動の生涯に幕を閉じられます。

本門佛立宗では、門祖日隆聖人滅後430年余り、その法義・宗風が絶えようとする時、本門佛立講を開らかれ、正しい信心の道へと導いてくださったという意を込めて日扇聖人のことを「開導聖人」ともお呼びします。